旧伊藤博文金沢別邸の歴史
旧伊藤博文金沢別邸の変遷について
明治31年(1898) |
伊藤博文が金沢野島に別邸を建築する |
明治36年(1903) |
皇太子(後の大正天皇)が訪れる |
明治41年(1908) |
韓国皇太子が訪れる |
大正5年(1916) |
大正天皇陛下行幸 |
昭和17年(1942) |
民間会社の所有となり保養所として利用される |
昭和34年(1959) |
横浜市の所有となる |
昭和37年(1962) |
玄関部分・湯殿部分を撤去する |
平成18年(2006) |
横浜市指定有形文化財(一般建造物)に指定される |
平成19年(2007) |
解体工事・調査を実施 |
平成20年(2008) |
工事着手 |
平成21年(2009) |
10月に庭園とともに公開 |
伊藤博文について
伊藤博文は、天保12(1841)年、周防国(現在の山口県)に百姓の林十蔵・琴子夫妻の長男として生まれ、幼名を利助といいました。利助が12歳の時、父十蔵が萩藩の中間(ちゅうげん、武士の奉公人)であった伊藤直右衛門の養子となり、伊藤姓を名乗るようになります。
安政4(1857)年、松下村塾に入って吉田松陰に学び、桂小五郎や高杉晋作、井上馨、山縣有朋らと討幕運動に奔走します。
維新後は、政府近代化政策の中心的役割を担い、明治18(1885)年に44歳で初代内閣総理大臣に就任しました。4度の内閣組閣と枢密議長、初代韓国統監を経て、明治40(1907)年に公爵を授与されました。
明治42(1909)年10月26日、中国黒龍江省のハルピン駅で暗殺され、68歳の生涯を閉じました。
天保12年(1841) |
周防国(現在の山口県)で林十蔵の長男として生まれる |
安政元年(1854) |
父が伊藤家の養子になったことにより伊藤姓となる |
安政4年(1857) |
松下村塾に入り吉田松陰に学ぶ |
文久 3年(1863) |
イギリスへ密留学する |
明治 4年(1871) |
岩倉具視の使節団に随行し欧米各地を歴訪する |
明治18年(1885) |
初代内閣総理大臣となる |
明治20年(1887) |
憲法起草を開始する |
明治22年(1889) |
大日本帝国憲法が発布される |
明治31年(1898) |
金沢野島に別邸を建築する |
明治38年(1905) |
初代韓国総監となる |
明治42年(1909) |
ハルビン駅で暗殺される |